Sunday, December 30, 2007

目盛りの言葉

愛しているから、別れよう。
愛しているから、別れない。

人はもし、自分にとてつもないハンディがあった時、
それを愛する人に隠し通して幸せになることができるのだろうか?
それが身体的な問題でも、大きな心の問題であっても、
その渦に愛する人を巻き込んで良いのか?

2004年の映画「解夏(げげ)」をDVDで観ました。
原作はさだまさしで、監督は「がんばっていきまっしょい」の磯村一路。
出演は大沢たかお、石田ゆり子、松村達雄、古田新太などです。

あらすじを少し。

都内で小学4年生の担任をしている隆之(大沢たかお)は、
いつごろからか、口内炎や頭痛、視力の低下に不安を覚え出す。
思い切って幼なじみの眼科医(古田新太)に診察をしてもらうと、
難病のベーチェット病であることが判明。
この病気にかかると、視力を永久に失ってしまうというものだった。
いつ失明してしまうともしれない恐怖に怯えながら、隆之は小学校の教師を辞職する。恋人の陽子(石田ゆり子)は急遽、留学先から帰国し、隆之の側で彼を支えようとする。隆之は故郷の長崎へと帰ることを決意し、都内のアパートを引き払う。隆之は陽子を失ってしまうことに深い絶望を感じた。
しかし、いずれ失明してしまう自分といっしょにいるより、もっと別の形の幸せが彼女にはあるのではないかと陽子と距離を置こうとする。

ある日、長崎へ戻った隆之の元へ、追いかけるようにして陽子が訪ねて来る。陽子は誰よりも隆之を愛していた。いずれ視力を失くしてしまう隆之の「目」になりたいと思ったのだ。

隆之は複雑な心境を抱きながらも、陽子の優しさに触れながら
故郷長崎の街並みを最後の視力で焼き付けようとする。
ある時、隆之と陽子は聖福寺付近を散歩していると、
隆之が突然の発作でその場に倒れ込む。
偶然にもそれを目撃した林という老人(松村達雄)に声をかけられ、
お寺で休ませてもらうことにする。
お茶に呼ばれた隆之は、
その老人になぜか自分の病いを告白してしまいたい心境に駆られた。
老人は隆之の告白に一部始終耳を傾け、やがて「解夏」についての話を語り聞かせる。

失明したその瞬間にそれまでの恐怖から解放される、その日が隆之にとっての「解夏」であると。隆之の視力は日増しに狭くなり、やがて視界の全てが霧になろうとしていた。隆之は、努力してもどうすることもできない今の状況と、恐怖と絶望のうちに父親の墓前で泣き崩れる。


「解夏」というのは仏教用語で、
禅宗の修行僧が夏の90日間に行う安居という修行が終る時のことを言います。映画では、失明という恐怖、苦悩から解き放たれ、新たな出発をする日のこととして描かれています。

人によって「愛」の感じ方は違うのに
心にそれをはかる目盛りなど無いから
何よりたいせつな「愛」を
それぞれの価値観で計るしかないのが「わたしたち」なのです。

ならば、「アイ・ラヴ・ユー」を「あなたを愛している」と訳すよりも、
たとえば、二葉亭四迷のように「死んでもいい」と訳した方が伝わりやすいではないか。そう、「愛」と言わず、目盛りになる言葉を使ってみるのです。

たとえば「たいせつなひと」、或いは「代え難いひと」と。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home